愛知県を代表する観光地「名古屋城」。
名古屋城は、大坂城や熊本城と合せて三名城と評されるなど全国的にみても知名度が高い名城といっても過言ではないでしょう。
しかし、歴代の城主は誰かと聞かれると1人も言えなかったり、なぜか城内に銅像がいくつも設置されている加藤清正と間違って答えてしまう方も多いのではないでしょうか。
そこで本記事では、名古屋城の歴代の城主17名について紹介していきます。
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目次
名古屋城はいつ誰が築城したのか
歴代の城主を紹介する前に、いつ誰が築城したのかについて紹介します。
まずは築城を命令した人物ですが、それは誰もが知っている「徳川家康」です。
徳川家康は名古屋城を豊臣勢と対抗するための重要な拠点、東海道の要所とするために1609年に築城がすすめられ、1614年に完成させました。
名古屋城の築城には、難攻不落の熊本城を造るなど城造りの名手とされる加藤清正も関わっており、高さ約20mもある扇のように広がる天守の石垣は見入ってしまうほど美しい造りとなっています。
名古屋城の歴代城主(初代~)
それでは、いよいよ金のしゃちほこで有名な名古屋城の歴代城主は誰なのかについて紹介していきます。
名古屋城は徳川家康の息子が初代城主となってから17代に渡って尾張徳川家(尾張藩主)が城主を担ってきました。
その期間はなんと約260年にものぼり、今の名古屋を作ったといっても過言ではありません。
歴代の城主は計17名(重複含む)と多いため、それぞれ簡潔に紹介していきます。
①初代城主:義直(よしなお)
名古屋城の初代城主となったのは、徳川家康の九男「徳川義直(よしなお)」。
義直は尾張藩の初代藩主でもあり、徳川御三家のひとつである尾張・徳川家の礎を築いた人物です。
慶長5年(1600年)に大坂城もしくは伏見城にて産まれ、幼少に時代にすでに甲斐藩主、慶長12年(1607年)に尾張国清洲藩主となり、慶長19年(1614年)には大坂冬の陣、翌年には大坂夏の陣にて活躍しました。
そして1616年にいよいよ名古屋入り・名古屋城の初代城主となり、真面目な性格から内政に尽力し、新田開発や治水整備なども積極的に行いました。
義直は武術にも非常に長けていましたが、儒教を学ぶなど学問にも力を入れており、様々な書籍を集めた現代の図書館のような蓬左文庫(徳川美術館の隣に現存)を創設したことでも有名です。
そして、慶安3年(1650年)に江戸藩邸にて51歳にてなくなりました。
②2代目城主:光友(みつとも)
名古屋城の2代目城主となったのは義直の長男「徳川光友(みつとも)」。
光友も義直と同じく儒教を学び治世を積極的に行いました。
寺社奉公制度や評定所、防火制度、軍備を整備するなど義直が築いた基盤をさらに固めたとされています。
元禄6年(1693年)には嫡男である綱誠に城主を譲り、元禄13年(1700年)に76歳にてなくなりました。
③3代目城主:綱誠(つななり)
3代目の城主となったのは光友の子「徳川綱誠(つななり)」。
元禄6年(1693年)に光友の後を継いで治世を行うこととなり、元禄11年(1698年)には地誌「尾張風土記」の作成を命じたことでも知られています。
しかし、その他には目立った業績は少なく、さほど治世の内容は知られていません。
6年間城主を行った後、元禄12年(1699年)に48歳にてなくなりました。
④4代目城主:吉通(よしみち)
綱誠の後に4代目城主となった「徳川吉通(よしみち)」。
吉通は綱誠の十男であり、父がなくなったことによって城主に抜擢されましたが、11歳と若いため叔父にあたる松平義行が補佐しながら内政を行いました。
吉通が行った治世の中には、尾張藩が所有する木曽の山々の荒廃を防ぐために森林の伐採を厳しく取り締まるなど林業の整備にも力を入れたとされています。
しかし、江戸幕府6代将軍である徳川家宣が後継にと考えるほど名君であった吉通ですが、正徳3年(1713年)に25歳の若さで不審な点がいくつもある中でなくなりました。
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名古屋城の歴代城主(5代目~)
⑤5代目城主:五郎太(ごろうた)
5代城主となったのが吉通の幼い長男「五郎太」。
しかし、城主となったわずか約2ヶ月後になくなるなど、またしても不審な点が多いことが続きました。
⑥6代目城主:継友(つぐとも)
五郎太の後を継いだのは叔父にあたる「徳川継友(つぐとも)」。
継友は、3代城主である綱誠の十一男であり、正徳3年(1713年)に尾張徳川家の6代城主となりました。
6代城主である継友は江戸幕府8代将軍の候補にも挙がるほどの人物でしたが、結局8代将軍は質素倹約でも知られる吉宗が継承することとなりました。
継友は財政難にある藩の財政を立て直すなど、名古屋の城下町を繁栄させる大きな功績を作ったことでも知られています。
⑦7代目城主:宗春(むねはる)
7代城主となったのは継友の弟「徳川宗春(むねはる)」。
宗治は自由奔放な性格であり、江戸幕府8大将軍である徳川吉宗の質素倹約することを示した享保の改革に反して質素とは真逆な世の中を作ろうとしました。
その結果、城下町である名古屋は「芸どころ」と呼ばれるほど活気を取り戻し、にぎやかな町へと風変わりしました。
しかし、財政を悪化させたこと、なにより時の将軍・吉宗の政策に反するなど幕府との対立を強めたことも大きな要因となり、宗春は隠居を命じられ、城主を退くこととなってしまいました。
⑧8代目城主:宗勝(むねかつ)
隠居した宗春に代わって8代目城主となったのは宗春の従弟「徳川宗勝(むねかつ)」。
宗勝は元々は高須藩にいましたが、尾張徳川家に入ることとなりました。
名君であった宗勝はこれまで行われてきた自由奔放な宗春の政策とは一転して、質素倹約を主とする緊縮財政政策を推し進め、藩の財政を改善させました。
宗勝は財政の立て直し以外にも刑法を整備するなど様々な政策を行ったとされており、宝暦11年(1761年)に57歳でなくなりました。
⑨9代目城主:宗陸(むねちか)
9代目城主となったのは宗勝の次男「宗陸(むねちか)」。
父・宗勝と同じく名君であった宗陸は、在位期間であった約40年間の中で学問や産業、土木整備など様々な内政を行い藩を発展させました。
特に学問に力を入れていた宗陸は、尾張藩校「明倫堂」を開学し、現代の名古屋市東区に位置する明和高校の前身ともなっています。
しかし、宗陸の統治時代の晩年には大改革がひびき財政赤字が顕在化するなど、これから起こる尾張藩の大きな財政難の要因を招いたとされています。
名古屋城の歴代城主(10代目~)
⑩10代目城主:斉朝(なりとも)
長きにわたった宗陸の後を継いで10代城主となった「徳川斉朝(なりとも)」。
斉朝は江戸幕府11代将軍・徳川家斉の甥にあたり、宗陸の養子として尾張徳川家に入りました。
宗陸が創設した藩校・明倫堂の学制改革を行うなど宗陸と同じく学問に力を入れていたとされています。
文政10年(1827年)に従弟にあたる斉温に城主を譲り、35歳にて隠居しました。
⑪11代目城主:斉温(なりはる)
斉朝の隠居後に11代城主となったのは「徳川斉温(なりはる)」。
斉温は江戸幕府11代将軍である家斉の十九男であり、斉朝が隠居したことから9歳にして城主となりました。
しかし、城主とはなりましたが、天保10年に21歳の若さでなくなるまでの12年の間に名古屋城どころか尾張藩領に1度たりとも足を踏み入れることはなかったとされています。
尾張藩に足を運ばなかった理由には諸説ありますが、これにより藩士や領民との距離は広がったとされています。
⑫12代目城主:斉荘(なりたか)
12代城主となったのは、江戸幕府11代将軍である徳川家斉の子「徳川斉荘(なりたか)」。
斉荘は御三卿である田安家に養子として過ごしていましたが、斉温の死去により幕府から尾張藩に入ることを命じられて城主になりました。
しかし、斉荘を藩主とすることは幕府の一方的な命令であったため、尾張徳川藩内には激しく抵抗する派閥も結成されるなど大きな問題へと発展しました。
さらに、斉荘が内政に力を入れず茶道など遊びに興じていたために藩は困窮し始め、天保13年(1842年)には幕府からお叱りを受ける事態にまで発展し、藩内ではさらに抵抗が強まっていきました。
⑬13代目城主:慶臧(よしつぐ)
13代城主となったのが「徳川慶臧(よしつぐ)」。
慶臧は田安徳川家3代当主である徳川斉匡の十男であり、斉荘がなくなった後に弘化2年(1845年)に10歳の若さにして城主となりました。
しかし、尾張藩の中にはまたしても幕府の養子を押しつけられたことに抵抗を強める派閥の声が大きくなり、後の尊王攘夷派と佐幕派の争いへと向かっていくことになります。
慶臧自身は優秀な人物であったようですが、若すぎたこともあり城主となった4年後になくなるまでの間に目立った業績は残せなかったとされています。
⑭14代目城主:慶勝(よしかつ)
慶臧に次いで14代城主となった「徳川慶勝(よしかつ)」。
これまで10~13代と4代にわたって将軍家の養子が押しつけられ抵抗が増す尾張徳川家に、いよいよ尾張藩の分家である高須松平の出身の慶勝が城主となりました。
慶勝は倹約を主とする内政を行い藩の財政の改善を図るなど財政に苦しむ藩の立て直しに尽力した一方、将軍・徳川継嗣や井伊直弼と対立したために隠居を命じられてしまいました。
ただし、慶勝の隠居は桜田門外の変の後に解かれ、その後は政治にも大きく関わるようになり、数年後には十七代城主として再び尾張藩主となることになります。
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名古屋城の歴代城主(15代目~)
⑮15代目城主:茂徳(もちなが)
強制的に隠居を命じられた慶勝の後を継いで15代城主となったのは慶勝の弟「徳川茂徳(もちなが)」。
慶勝の隠居処分が解かれると藩主の座を慶勝の子である義宣に譲り、その後には一橋家を継ぐことになります。
⑯16代目城主:義宣(よしのり)
16代城主となった14代城主・慶勝の子「徳川義宣(よしのり)」。
しかしながら、義宣はまだ若かったこともあり慶勝が後見として実質的な尾張藩の政治を行っていたとされています。
義宣が城主を務めていた間には江戸幕府15代将軍・慶喜が大政奉還を行うなどまさに激動の時代でありました。
明治8年(1875年)に義宣は若くしてなくなったため慶勝が再び城主となりました。
⑰17代目城主:慶勝(よしかつ)
義宣の後を継いで再び城主となった17代目城主「徳川慶勝(よしかつ)」。
時は明治、慶勝が最後の尾張藩主となり、城主は17代で終えることとなります。
名古屋城の魅力
これまで名古屋城の城主となる尾張藩主を17代に渡って紹介してきました。
そんな名古屋城の歴史もさることながら、観光地としても人気の名古屋城の魅力を紹介していきます。
春にはきれいな梅・桜が見られる
名古屋城内には春になるとたくさんの美しい梅や桜が咲き誇り、壮大な名古屋城とのコラボが楽しめます。
特に桜が咲き誇る3月下旬~4月上旬にかけて例年ライトアップも行われるなど名古屋屈指のお花見スポットともなっています。
名古屋城の梅情報はこちら↓
名古屋城の桜情報はこちら↓
夏にはお祭りが楽しめる
名古屋城では例年8月上旬~中旬にかけて「名古屋城夏祭り」が開催されます。
一番の目玉ともいえる大盆踊り大会など様々なイベントを行われる、名古屋の夏を盛り上げてくれる夏祭りとなっています。
夏祭りの詳細はこちら↓
以上、名古屋城の歴代の城主は誰なのかについて紹介しました。
ぜひ、名古屋城に足を運んでみてはいかがでしょうか。
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名古屋城の基本情報
住所:愛知県名古屋市中区本丸1-1
電話番号:052-231-1700
入場料:大人500円、中学生以下無料
天守閣の工事の状況についてはこちら↓